





キンドル版
柿本人麻呂伝地球星系社刊初版 2017年9月1日発行 この「柿本人麻呂伝」は、『新日本書紀』(2017年7月現在版)第二部新孝徳紀から新持統紀までの天皇紀より、柿本人麻呂に関係する記事を抽出し、『新日本書紀』(2017年7月現在版)第三部第6章「柿本人麻呂」と第7章「人麻呂の子躬都良」を加え、それらを年代順に並べ、その上で新たな研究成果を盛り込み、大幅な加筆と修正を行ったものです。柿本人麻呂という歴史上著名な人物について、万葉集、日本書紀、続日本紀などを読み解くことでその人生をたどりつつ、柿本人麻呂にまつわる謎の数々を解明し、柿本人麻呂の生涯を明らかにしています。 |
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『柿本人麻呂伝』「はじめに」より引用 ……。 以上が柿本人麻呂の生涯の骨格である。この骨格を明らかにした梅原猛氏の業績は顕らかである。この骨格の上に梅原氏は次のような肉付けを行った。 持統天望の側近として、神話や祝詞などの作成に関与していた柿本人麻呂は、やがて官僚制度を重視する藤原氏によって邪魔者として指弾され、反逆者の汚名を着せられるところとなり、名も「人麻呂」から「佐留(猨)」(人から猿) へと貶められ、和銅元年四月二十日、石見国益田の海上、高津の鴨島から海に放り込まれて、水死させられたとする。 (『柿本人麻呂』多田一臣著、203頁) 多田一臣氏による簡単な要約である。この梅原氏の肉付けに対しては益田勝実氏(1923─2010)により、矛盾が指摘され、その矛盾は以下の二点に要約できるという。 一、正史である続日本紀が、改名までして流罪にした人物に対して、剥奪されたはずの「従四位下」の官位を記し、さらにその死を「卒」(四位、五位の死が「卒」)と表現するのは矛盾であること。 二、続日本紀が編まれる頃、仮に人麻呂の名誉回復がなされていたとしても、貶められた名と梅原氏が主張する「佐留(猨)」が、なおここに用いられているのは、これまた自己撞着が甚だしいこと。 (『柿本人麻呂』多田一臣著、203~204頁) しかし、公平に見て、梅原氏による人麻呂の生涯の肉付けに矛盾が見つかったというだけである。梅原氏が打ち立てた骨格は揺るがない。梅原氏による骨格に矛盾の無い肉付けを行えばよいだけである。 私による肉付けである。梅原氏による骨格を前提とした人麻呂研究結果の大要を述べると、孝徳帝の時代に生まれた人麻呂は、天武帝の時代に歌人としてデビュ─し、その才能を認められて、稗田阿礼として古事記に関わった。持統帝の代になると宮廷歌人となって出世し明日香皇女あすかのひめみこと結婚した。文武帝の代に遣唐使に任命されるが、渡唐を拒否し、長門ながとに流刑になり、石見に移って生活した後、赦免を受けて上京し、原古事記を献上して復権する。ところが、この原古事記はヤマト王権の秘密を暴露するも同然のものだという太安万侶の告発を受け、石見で絞首刑となり、水葬に付された。特筆すべきは、流刑の原因が遣唐使で、刑死の原因が古事記であることを明らかにした点である。 この肉付け(人麻呂の生涯に関する仮説)に従って、益田勝実氏指摘の矛盾に答えよう。 まず、一、について。 流罪の時は改名に値すると評価されるまでの事はしていない。渡唐を拒否して除名を受け流罪になっただけである。その後、復権して「従四位下」に叙されたが、原古事記による秘密暴露の大罪により秘密裏に処刑された上で、除名を受けた。続日本紀が「従四位下」の官位を記し、さらにその死を「卒」と表現するのは、この大罪により処刑されたことを隠すためである。そもそも、この記録が残されたのは続日本紀の編纂者が持っていた史家としての良心によるものである。 次に、二、について。 続日本紀が編まれる頃にも名誉回復は為されていない。ただ、続日本紀が編纂される頃には、処罰感情が薄らいでいたので、「猨」より穏やかな「佐留」という表現になったということである。 以下、梅原猛氏の成果を踏まえて、柿本人麻呂という歴史上著名な人物について、その人生をたどりつつ、柿本人麻呂にまつわる謎の数々を解明し、柿本人麻呂の生涯を明らかにして行く。その中で、人麻呂の生涯に関する仮説の理由・根拠を説明するとともに、この仮説に基づいて史実を説明する。 ……。 |