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「東の野に炎」の歌

高尾山古墳

 


「東の野に炎」の歌

『柿本人麻呂伝』第6章「持統帝の代─宮廷歌人の結婚─」より紹介

東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
東に野の(かぎろひ)の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ
(万葉集第一巻、四八番)


 この歌が歌われたのが、持統紀六年四月十五日、西暦692年の5月6日であることを明らかにしました。
 その部分を公開します。

……。

692年
 四月十五日に、軽皇子一行が安騎野で朝を迎える。〔独自〕


 万葉集第一巻の四五番から四九番歌は、題詞によれば、「軽皇子が安騎の野に宿った時に柿本朝臣人麻呂が作った歌」で、安騎の野は奈良県宇陀市付近にある。この歌は持統天皇の伊勢御幸の歌の直後にある。なので、この歌が作られた事情は次のようなものだと考えられる。
 持統天皇は伊勢御幸において明日香皇女との仲を許してもらいたいという人麻呂の嘆願を聞いた。その嘆願を熟慮中の持統天皇は、人麻呂の忠誠心を試すために、軽皇子の遊猟に従って歌を作るように命じた。軽皇子の一行に加わった人麻呂は安騎の野で名歌を作った。

軽皇子が安騎の野に宿った時に柿本朝臣人麻呂が作った歌
やすみしし 吾が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす (みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道(やまぢ)を 岩が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹(しの)を押しなべ 草枕 旅宿りせす 古昔(いにしへ)思ひて
(万葉集第一巻、四五番)

安騎の野に宿る旅人うち靡き寐もやらめやも(いにしへ)思ふに
(万葉集第一巻、四六番)


ま草刈る荒野にはあれど黄葉(もみぢば)の過ぎにし君が形見とそ来し
(万葉集第一巻、四七番)

東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
東に野の(かぎろひ)の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ
(万葉集第一巻、四八番)

日並(ひなみし)の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ
(万葉集第一巻、四九番)


 これらの歌が作られたのはいつだろうか。四八番歌は、東に太陽が昇ろうとして炎かぎろひのたった時に、西を反り見ると月が沈もうとしていたという。早朝、太陽が昇る頃に、西で月が沈む天体事象をシミュレ─ションして見つければよいことになる。
 見つけるにしても時期を絞る必要がある。その大体の時期は、これらの歌の第一巻における位置が、伊勢御幸の後で、五〇番の「藤原宮の役民の作った歌」の前であることから分かる。
 伊勢御幸は692年の三月に行われたので、692年四月以降。
 五〇番の左注には、「日本紀が曰うには、「朱鳥七年癸巳きし(693年)の秋八月、藤原宮の地に幸したまいき」、「八年甲午(694年)の春正月、藤原宮に幸したまいき」、「冬十二月庚戌の朔の乙卯、藤原宮に遷居したまいきという。」とあるので、693年の七月以前。
 したがって、692年の四月から693年の七月の間に安騎野の歌は作られたことになり、その間を探せばよいことになる。
 探す方法だが、天文シミュレ─ションソフトウェアを使用する。ステラナビゲ─タ─9を使用した。具体的には、場所を宇陀市付近に設定する。そして、太陽は東から昇るのに決まっているから、西の地平線だけを観察し、早朝の太陽が昇る時間に、月が西の方で沈むのを見つければよいことになる。
 そのような日時を探すと、太陽暦692年5月6日、陰暦の四月十五日が当てはまることが分かった。ちょうど太陽が昇る頃に、月が西南西の方角に沈む。その日の太陽が出始める時は、4時54分。月が没し始めるのが4時44分。月齢は一三・七。
 692年の四月十五日の早朝、太陽が昇り始める徴候を示す陽炎を見た柿本人麻呂が西を反り見ると、月が沈もうとしていた。
 では、人麻呂が東で見たのは、曙光だけなのか、それとも陽炎も見たのか。四月であり陽炎が立ちうる時期である。通常は「東の野に炎」と読むが原文に忠実に読むと「東に、野の炎」となる。東では、野が炎となって燃えているように見えたのだから、それは陽炎によるものと考えられる。また、陽炎の一部である「炎」を用いている以上、陽炎が立ったと考えるべきだ。
 ……。

「東に野の炎」
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